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公開日時 2018.11.27
最終更新日時 2022.04.06

日本が誇る土木構造物。ダムの歴史を知る②【中世~近世編】

この記事では、日本における中世から近世、具体的には戦国時代におけるダムの歴史をご紹介していきます。
鎌倉時代や室町時代にはあまり発展しなかった土木技術が、戦国時代には一転して発展していきました。
その土木技術が軍事目的に転用され、ダムを作って敵を倒す戦術まで出来上がったのが戦国時代の特徴です。
それは一体どういうことなのか、本記事で説明していきます。

治水や灌漑のために土木技術が発展

戦国時代は群雄割拠の時代です。
自分の国を栄えさせ、強くするために農業生産力を上げる必要がありました。
また、洪水で国力が低下することを防ぐ必要もありました。
これらの事情から、灌漑や治水のために土木工事が盛んに行われるようになりました。
有名なものは、武田信玄が作った「信玄堤」です。
「信玄堤」の名前は江戸時代に付けられたそうですが、信玄堤のおかげで洪水の被害は減少したそうです。
少し時代は下りますが、武田家が滅亡後、江戸時代になってからは同地域に用水路が多数建設され、多くの田畑が新しくできたため、農業生産力が大きく高まったそうです。

水攻めのために堤防やダムが作られた

豊臣秀吉が城攻めのときにしばしば採用した戦術が「水攻め」です。
「水攻め」とは、攻撃する城の周りに堤防を作り、近くの河川等から水を引き入れて城を水没させてしまう作戦です。
水攻めが成功すれば自分の軍の人的被害を少なくすることができますが、堤防を迅速かつ確実に作る技術と人員が必要な戦術でもあります。
秀吉が行った最初の水攻めは備中高松城に対するもので、全長3キロ、高さ7mの堤防を短期間に作り上げました。
その後、紀伊国の太田城を攻めた際には389万4000平方メートルもの貯水量を誇る堤防を一週間程度で築き上げました。
武蔵国の忍城を攻める際にも、秀吉は石田三成に命じて水攻めを行わせました。
この水攻めは堤防の決壊によって自軍に被害が発生して失敗に終わりましたが、自然堤防を利用しながら全長28キロもの堤防をわずか1週間程で建設する計画だったそうです。
水攻めのために作られた堤防は、いわば超突貫工事で作られた、あくまで一時的なものではありましたが、現代でも各所に当時の名残が残っています。

もし水攻め用堤防作りの現場監督に任命されたら…

水攻めのためとは言え、重機のない時代に超高速で堤防を作るには並々ならぬ苦労と洗練された技術、そして指揮監督する現場監督の能力が必要だったはずです。
自分なら同じ期間で同じ規模の堤防をどうやって作るのか、思いを馳せてみるのも楽しいかもしれません。

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