ページトップに戻る
公開日時 2018.11.27
最終更新日時 2022.04.06

日本が誇る土木構造物。ダムの歴史を知る③【江戸時代編】

江戸時代にダム?と思う人も多いかもしれませんが、江戸時代には利水・治水のために多くのダムが作られました。
当時はダムという言葉がありませんでしたが、その代わりに小規模なダムを意味する「堰堤」と呼ばれる言葉が使われていました。
本記事で江戸時代のダムやダム事業について紹介していきますので、興味のある方はご覧ください。

江戸の水利事業

関東に拠点を移した徳川家康は、将軍になる以前から利根川や荒川の灌漑事業と利水事業に力を入れてきました。
家康が幕府を開いてから、この傾向は加速されます。
特に重視されたのは貯水池の確保であり、元々あった自然の沼である見沼に八丁堤と呼ばれるダムが作られたのを皮切りとして、利根川や荒川の流域に複数の貯水池が整備されました。
この結果、各地の農地に多くの水を供給できるようになりました。
江戸時代に作られた有名なダムとして、「関東三大堰」と呼ばれる岡堰、豊田堰、福岡堰が挙げられます。
また、江戸の人々に生活用水を送るための上水道が整えられたのも江戸時代です。
有名な神田上水や玉川上水が作られました。
現在の永田町から赤坂にあたる地域にも、虎ノ門堰堤というダムによって赤坂溜池という貯水池が作られ、上水道用水が確保されていました。
永田町も赤坂も現在の都心ですが、そこにまで大きな池が作られるほど、江戸時代には水の確保が重視されていたのです。

関東以外のダム事業

江戸時代には関東以外の地方でも頻繁に工事が行われました。
多くは農業用の溜池を作るための土木工事でした。
代表例として尾張藩(現在の愛知県)で行われた入鹿池の工事をご紹介します。
尾張藩では新田開発のために日本最大級の溜池を作る計画が持ち上がり、尾張藩主の支援の下、入鹿村の辺りに巨大なダムを作ることになりました。
様々な技術的困難を乗り越えて、高さ26m、長さ180mもの巨大なダムが完成し、入鹿池が作られました。
入鹿池の水のおかげで新田開発が進みましたが、1868年にダムが決壊し、死者941名、負傷者1,471名、流失家屋807戸の大きな被害が発生しました。
この事故は日本史上最悪クラスのダム事故として、現代まで語り継がれています。
その入鹿池ですが、香川県の満濃池に匹敵する日本最大級の溜池として、現在でも使われています。
平成になってから入鹿池は再開発され、洪水調節機能も持つようになり、周辺の治水に貢献しています。

江戸時代の地図と現代の地図を比べても面白い

上記以外にも、江戸時代には多くの工事が行われました。
「江戸時代はこうだったけど現代はこうなっているのか」と現場監督の目線で比べてみるのも面白いので、古地図と現代の地図を見比べてみたり、東京巡りをしてみたりすると、色々な発見があると思います。

俺の夢は「施工管理技士の派遣転職」に特化し、業界最大級の求人数、30年以上の転職サポート実績を誇る求人サイトです。
このサイトでは、施工管理技士の方に役立つ情報を「トレンド」「キャリア」「知識」の3つに分けてお届けしています。
運営企業:株式会社 夢真

Twitter LINE
NEW

新着求人

2024年3月28日更新
新着情報0
現在、新着求人はありません。